にののシステム科学講座

発達障害、家族、生活のあれやこれやをテーマにレポートします。

『発達障害と呼ばないで』〜"障害"ではなく"非定型発達"

本来、子どもの発達や成長というものは、一様なものではない。定型的と考えられている発達が絶対の基準というわけではない。

各人の発達プロセスは、それぞれの違いがあって当然であるし、一般に考えられている以上に、発達の仕方というものは個人差がある。

男の子と女の子という性差によっても 、発達の仕方はかなり違ったものになってくるし、その子のもって生まれた遺伝的形質によっても、異なるタイプの発達の仕方をする。

ところが、発達障害という考え方が行き過ぎると、平均的な、いわゆる定型発達が、本来期待される健常な発達であり、そうでない発達の仕方は、発達に問題の生じた”障害”であるという見方になってしまいかねない。

(『発達障害と呼ばないで』5〜6頁)

発達障害と呼ばないで (幻冬舎新書)

発達障害と呼ばないで (幻冬舎新書)

 

 

娘の発達障害について知らない友人から「あの子って発達障害っぽくない?」

と話を持ちかけられ、何とも言えない気持ちになることが度々あります。

 

社会的枠組みから外れた行動をとる子どもがいれば「発達障害」というラベリングをし、異端とみなす。

ただそれだけ。

発達障害」についての理解はない。

 私の周囲では「発達障害」という言葉の認知度は高いように思いますが、かと言って、「発達障害」がどういうものなのか知っている人はごくわずかだと思います。

そして、発達障害児については、

・落ち着きがない、先生の言うことをきかない

・集団になじめない

という傾向があれば、「あの子発達障害かもね」と陰で噂される。

未就園児の場合、早生まれであれば、発達の進度に多少の遅れがあるのは当然のことのように思いますが、それを無視して「発達障害」へ関連づける雰囲気を感じる時もあります。

 

日本がいかに画一化社会であるかを、行動範囲がそう広くない私でも、嫌と言うほど感じるこの頃です。

 

「障害」ではなく「非定型発達」

そもそも、発達の仕方が違うタイプが、一定割合ずつ存在するのである。それは、ちょうど血液型のようなものである。

それぞれはタイプであって、どれもその子の特性なのである。

それぞれタイプの異なる発達の仕方があり、異なる情報処理の特性をもち、社会性や情緒、認知、行動の面でも異なる特性を示す。

どれもそれぞれの輝きをもった”個性”なのである。

どれもメリットがあるから、長い進化の時を経て生き残ってきたのである。

多数派のタイプを基準に、同じ基準を他のタイプに適用しようとすると、それぞれのタイプの特性に過ぎないことが、”症状”とみなされるということが起きてしまう。

むしろ必要なのは、それぞれのタイプの特性を理解し、それが活かされるよう働きかけるのはどうしたらよいのかということを知ることである。

それは「非定型発達」を”障害”としてしまうか、”才能”にするか分けることにもなるだろう。

(『発達障害と呼ばないで』6〜7頁)

 

過去に次女について、発達障害を疑い保健センターで発達相談をうけた際、心理士から言葉を中心に遅れがあると言われたので「発達障害か?」と尋ねたところ、「育ちに遅れがある」と言われました。

ninono0412.hatenablog.com

この時、心理士が曖昧な言い方をするものだと、多少の苛立ちを感じましたが、 今思うとこの言葉で充分だったように思います。

強いて言うならば、「発達のタイプが違う非定型発達」だと良かったかもしれません。

 

けれども、私は次女の置かれている状況について、明らかにさせたいという思いから、すぐに児童精神科医と繋がり、結果、次女がADHDであるとの診断を受けました。

それが、不適切だったという訳ではありませんが、今思えば、診断を受けることについては次の理由から、急ぐ必要がなかったように思います。

  • 当時次女は3歳で就学までに時間があった。
  • 私が次女の育児について特に困ってはいなかった。
  • 診断を受けなくても、発達検査の結果や発達相談の心理士の判断により、現在の療育を受けることができた。

また、今通院する児童精神科の初診では、あらかじめ「診断が必要かどうか」と確認をされていました。

その時は何を言っているのか意味がわからないと思いましたが、診断の有無を私が選択することができたんですね。

また、前述した理由の他、診断後、私が発達障害という視点にとらわれ過ぎたために、子ども自身の可能性を信じるという視点に欠けてしまったこと、不安が大きく私自身に気持ちのゆとりがなくなったことを考えると、当時「発達障害」という診断を受けることについてメリットは特にありませんでした。

 

「障害」ではなく「才能」

非定型発達のデメリットにばかりに着目し、定型的な多数派の子どもにできることを基準としてみれば、”欠陥”や”障害”だということになるかもしれないが、優れた面に目を向ければ、それは”障害”どころか”才能”だということになる。

ことに近年増加が目立つのは、障害の程度が比較的軽い「軽度発達障害」と言われるタイプである。

しかし、しばしば問題が深刻になりやすいのは、むしろ軽症なこのタイプなのである。

しかも、このタイプは周囲の環境や理解次第で”障害”は何ら目立たなくなり、優れた特性を発揮することもできる。

その意味では、「障害」ではなく、「非定型発達」と呼んだ方が、まだしも真実に近いし、弊害が少ないように思える。

(『発達障害と呼ばないで』175頁)

 

娘たちが優れた特性を持っているかどうかはわからないし、あったとしてもそれが社会的地位や名声に繋がる可能性は少ないと思います。

けれども、少なくとも娘の凸の部分について私がポジティブな意識を持ち娘と接することにより、今後娘のQOL(クオリティ・オブ・ライフ*)の向上に役立つことはあると思います。

*物理的な豊かさやサービスの量、個々の身辺自立だけでなく、精神面を含めた生活全体の豊かさと自己実現を含めた概念。 

 

また、多数派の子供たちと比べ、娘のできないことばかり気に病むことは、私の精神衛生上非常によろしくない。

娘たちの才能…とまでは言わなくても可能性を信じる方がずっと楽しい。

最近、そう思うようになった途端、以前より余裕をもって娘たちに接することが出来るようになったと思います。

 

娘たちは単に発達のタイプについて少数派なだけ。

それは一つの個性に過ぎないのだから、たとえ多数派よりは手がかかったとしても、いつかは芽がでることを信じ、健気に工夫を凝らしながら、水やりをすれば良いのです。

ちなみに、次の偉人たちは「非定型発達」のタイプであったことが知られているようです。

(参考:『発達障害と呼ばないで』)

 

おわりに

前述したように、娘たちについては、たまたま診断を必要とされる機会がなかったので、診断を急ぐ必要がなかったと思ってはいますが、これはあくまでも娘たちの場合であり、必要な支援を受けるためには診断が必須であることの方が多いとは思います。
けれども、「発達障害」という診断を与えられれば、保護者の気持ちに負の負荷が与えられるには違いなく、ポジティブになろうとしてもそれが難しくなってしまう人も少なくないと思います。
そういった弊害を考えれば、
"発達のタイプが異なる「非定型発達」の子ども"という見方で、必要な支援を受けたり、周りの理解を得ることがあってもいいのかもしれないと思うのです。
 
※追記(平成30年3月)
現時点では長女および次女もADHD治療薬が処方されています。
必要となった時に迅速に医師から薬を処方してもらうことができたという意味では診断を受けていたことに意味はあったと今は考えています。