にののシステム科学講座

発達障害、家族、生活のあれやこれやをテーマにレポートします。

自身のマイノリティ性を理解し、それをマジョリティへ発信するには

今でこそ「発達障害児の親」という意味では、自分は「マイノリティ」と公言できるかもしれないけど、私には、社会的に明らかにマイノリティと言える属性は特段ない方だと思います。

にも関わらず、私は幼い頃から、私は「自分の属する集団の中ではマイノリティであり、人とは違う部分がある」と強く意識していました。

 その「人とは違う部分」が何かと言うと、自分を取り巻く環境いわば個人的事情または資質のことであり、

  • 親がフルタイム共働きである(小学生位まで、私の住む地域で母親がフルタイムで働く人は希だった)
  • 勉強(仕事)が人よりできる *特別IQが高い訳ではない
  • 友達が少ない
  • 親との関係がうまくいっていない
  • 他人と趣味や嗜好がかぶることが少ない     等々

以上のように、そもそも「マイノリティ」という属性で説明すべきものはなく、それでも、「私は少数派である」と感じていたのです。

強いて言えば、最後の「親との関係がうまくいっていない」という点は、おそらく私のまたは親のASD傾向に由来があり、それが主たる原因で中学生の頃から「摂食障害」と長く付き合うことになった訳だから、マイノリティ性は多少あるかもしれない。

 いずれにしろ、常に大なり小なりの困り感は抱えていたことは事実で、それはASD傾向に由来していただろうに、自分の至らなさや周囲の環境が自分を理解しないせいだと悶々と苦しんでいた時期は長かった。

そのため、私は人とは違って特異な部分を持つ人間である=「マイノリティ」

といった、少々ねじ曲がった自意識が芽生えていったのだと思います。

こういった自意識を育てることにより、何か壁にぶつかった時に「私は、何か人と違う少数派だから、しょうがない」と自分を守ってきたのかなと。

つまり、自分のことを「マイノリティ」であると位置づけ、その殻に閉じこもることで、自分を守ってきたのです。

 

映画の主人公のマイノリティ性に共感する理由

ところで、私の好きな映画の一つに「ジョゼと虎と魚たち」があります。

ジョゼと虎と魚たち(通常版) [DVD]

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 *ネタバレ注意

主人公である「ジョゼ」は生まれつき下半身が不自由で歩くことができない。

ジョゼは祖母と同居しているが、祖母はジョゼのことを「こわれもの」扱いし、日中外に出ることを禁じ、世間的にジョゼを隠している。

そんなジョゼが、ごく普通の、しかも俗っぽい大学生「恒夫」と恋に落ちる物語である。

 

この映画を見た当時、恋も仕事も何もかもうまくいかず、摂食障害を悪化させていた20代の私は、自分のことも「こわれもの」で、世間的には理解を得にくいマイノリティであると思っていたので、ジョゼに強く共感しました。

「こわれもの」だけど、やろうと思えば、普通の大学生とも付き合えるし、最終的には、恒夫と別れるけれども、それはもともと自分の想定の範囲内だし、一人でも生きていくことができるジョゼ。

そして、最後に恒夫がジョゼと別れてた付き合った女性が、いわゆる恋に関しては基本挫折の知らないモテ系女子だったので「マジョリティの男(恒夫)には所詮マジョリティの女がお似合いよね」とひねくれた目で彼らを見ました。

 私は、ジョゼの生き方に「マイノリティ」である自身の生き方を重ね合わせ、マイノリティなりの強さというものを確認し、安心を得ていたのでしょう。

 

他者視点を意識し、相手の発言の裏にある背景や事情を探る

そんな、私も結婚し、可愛い子どももできました。

子どもができれば、子どもを通して必然的に人間関係が広がり、私はしぶしぶであったり、積極的だったりといろいろだったけど、母親という立場で人と接する機会が増え、遅ればせながら、友人でもなく仕事関係でもない人とのコミュニケーション方法を学んでいきました。

 そんな自身の成長を少しずつ感じていた頃、娘らが発達障害であることがわかり、娘の発達障害に関することで、役所・病院・保育園・療育機関等の関係者と話す機会が増えました。

こうなると、これまでのように自身の都合の良い時に自己の殻に入り「私はマイノリティだし、世間的にずれててもしょうがない」という訳にはいかない。

これらの関係者とは、自分の都合に合わせていつでも話すことはできないし、話す時は、事前準備もある程度必要な場合もあります。

私は、娘らのために、これらの関係者から最大限の情報を引き出し、また、自身の伝えたいこと・知りたいことを伝え、理解してもらうというミッションを常に持つようになりました。

こういうシチュエーションは勿論、会社で仕事をしていた時もあったけど、この時は、結果を出せば良かったので、相手の事情を無視することも度々あったし、今思えば、結構シビアだったと思います。

 一方、娘らの関係者である相手の事情等を無視したら、勿論良からぬ事態になる訳で、 私は自分の発言や態度に今まで以上に他者視点を意識し、相手の発言の裏にある背景や事情を探るようになりました(できる人にとっては当たり前のことだろうけど、私は強く意識しなければ、上手にできない人間です)。

これは、相手を尊重するということとも近いかもしれません。

こういった娘の発達障害にかかわる関係者のうち、特に療育関係者は常に尊重し、信頼をして接すると、娘にとっても私にとっても良い結果が生まれるのではないかと思っています。

 

マイノリティからマジョリティへ権利主張するには

一般に「マイノリティ」に属する人間なりグループは、マジョリティから敬遠される傾向にあると思います。

「マイノリティ」は自身の権利を声高に主張するけれども、その権利が守られるよう具体的に何をマジョリティにさせたいのか、具体性に欠ける。ただ、「権利、権利」と言うだけで、理想の世界を夢見ているだけじゃないかと。

 

そう言われてもしょうがない部分はあると個人的には思っています。

けれども、実際自身が「発達障害児の保護者」というマイノリティに属することになると、いろいろマジョリティに対し理解を求め、権利を主張していかなければならない。

  • インクルーシブ教育を普及させよ
  • 発達障害は生まれつきの脳の機能の問題から生じる障害であり、愛情不足や育て方の問題ではない
  • 発達障害の特性を理解し、発達障害児の環境調整に協力せよ 等々

このように、改革を求め、理解を訴えたいことはいろいろあるのだけど、マジョリティというか世間一般の常識や慣習を変えることは一般に非常に難しく、権利を主張するだけで、それを変えることは出来ない。

だから、何かを変えるためには、相手に気づかれない位、少しずつ少しずつ外側から責めていくのも一つの方法だし、「何故そうする必要があるのか」を具体例を持ち出してアピールする、まず相手に自分を信頼してもらう等、非常に工夫や段取りが必要だと思います。

 

おわりに 

以上のように、我が子や発達障害児のために、関係者や世間一般的に発達障害について理解を求めるといったことについて、その方法等をいろいろ工夫しつつ、取り組んでいきたいと思う今日この頃ですが、身近にいる親や友人に対するアプローチも別の難しさがあると思っており、その辺は今後の課題です。